医療の現場で軽視される心のケア~高次脳機能障害・失語症の方の当事者インタビューより~

医療の現場で軽視される心のケア~高次脳機能障害・失語症の方の当事者インタビューより~

ルポライターの鈴木大介さんと、高次脳機能障害・失語症の方を対象にインタビューをして、冊子を毎月発行しています→「脳に何かがあったとき」

今回は、あるエンジニアの方を取材しました。知的には非常に高く仕事で要求される技術は大きく影響はなかったようですが、コミュニケーションなどに問題が生じ、ことごとくうまくいかない事態が発生したのです。それが積み重なり、心が折れそうになってしまった・・そんなお話です。

「身体」「認知」、それよりも軽視されてるのは….

 脳損傷の後遺症は、「身体」「認知」「心」と言われています。言語聴覚士はこの「認知」の中でも、主に言語機能に関わる職種です。しかし、医療・介護・福祉行政の中で、「身体」にくらべて「認知・言語」は軽視されていると、常々問題に思っています。なぜなら「言葉によるこまりごと」が全然、反映されていないからです。麻痺よりも、コミュニケーションが難しいことの方が社会的自立を阻害しているのに、と言語聴覚士としては、いつも歯がゆく感じています。

しかし、当事者インタビューを続けているうちに、さらに軽視されているのが「心」であると気づきました。ある日突然、別人のようになった当事者の心理を、私たち現場の人間が、理解しようと努めもせずに、「心理士ではないから」とあまり関わろうとしない、というか、ケアできない。では心理職の人が病院にいるか?となると、なんと理学療法士の1/70人以下という実態、ほとんど、いないですよね・・。ということで、多くの脳損傷者(そして家族)の心理的ケアはされていません。志のある看護師・リハ職・相談員さんが、個人的にお勉強するくらいです(2017年に誕生した公認心理師についてはこちら→公認心理師とは?

どうしたら寄り添うことができるのか

50代のこの男性、ある日、インフルエンザに罹患、脳炎を発症します。身体の麻痺はなく、1か月未満の入院ののち、退院。数日の休養を経て、いざ仕事をしようとしたら、ことごとくうまくいかない。なにがうまくいかないのかもわからない。「なんでわからないんだ!」と目の前のPCに向かって叫ぶ、机をたたくと言った激しい衝動にかられた行動のあと、虚無感と罪悪感が残る日々。

楽しそうに花見をしている人を見て、僕はこの場に入れない人間になったんだと哀しい気持ちが溢れてきて、涙が止まらなかった。仕事ができなくなった自分が許せない、なんでこんなダメな人間なんだと、自分を責めたてるのを止められない。ことごとく失敗する、何ができないのか常に不安でたまらない。

本症例の吐露するこうした心情風景を、少なくとも私は、入院患者さんを前に仕事をしていた時には想像できませんでした。「なんとか言語機能を改善しよう、そうしたら仕事に戻れるのだ」その想いだけが先走り、その範疇で、つまりリハビリの阻害にならないように、やる気を損なわないように、プライドを傷つけないように、そんな気持ちで心理面への配慮をしていただけでした。

「障害受容」についても、浅はかな知識で、「どのような関りができると、受容しやすいのか」と考えていました。しかし、今、はっきりと思います。「あの患者さんは、障害受容が難しい」「受容ができている」そんなことをたかだか発症して数か月の患者さんに関わっている医療者が、口に出してはいけない。受容なんて簡単にできるものではない。そして受容していようが、できていないだろうが、日々、できなくなった自分を実感せざるを得ない生活が続くのです。

入院中はまだいい、やることが少ない環境、これまでの生活と全く違う環境だから。

本当に大変なのは退院して、これまでの生活に戻ってからです。他人からしたら、ほんの少しのことでうつ病等の2次障害を起こしかねない、ぎりぎりのラインで生活している当事者、そして家族は、何万といるのだろうと思います。

「身体」よりも「認知」よりも、さらに軽視されている「心」こそが、こうした人達に最も必要な支援なのではないでしょうか。そのためにも心理士が活躍できる制度の充実を願います。

おしらせ

冊子についてはこちら→脳に何かがあった時

お問合せは https://re-job-osaka.org/contact

 

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