支援者の正義が本人を苦しめる時 ― 「本人のため」が本人を置いていかないために

支援者の正義が本人を苦しめる時 ― 「本人のため」が本人を置いていかないために

第1回でご紹介した担当者会議で、支援職Aは何度もこの言葉を繰り返しました。

 

「自己決定」「自己責任」

 

確かに重要な概念です。でもその場で私には、ある違和感がありました。

 

自己決定と自己責任は、必ずセットでなければならないのか?

 

「責任が取れないなら、決定してはいけない」

 

そう聞こえる使われ方をされたとき、支援が必要な人ほど決定権を持てなくなってしまいます。でもそれは、支援の本来の姿でしょうか。

 

失敗する自由も、誰かと一緒に考えながら決める権利も、自己決定のうちだと思います。

 

そしてこの会議で、もう一つ気になったことがありました。

 

「言語療法なんていらない」

 

支援職Aはそう言いました。

 

でも今回、言語リハビリは自費で申し込んだサービスでした。保険でも、医療指示でもなく、本人が自分で選んで、自分のお金で申し込んだ。

 

自己責任が取れる行為の、最たるものだと思います。

 

ダイエットでも英会話でも、周囲が「無駄じゃない?」と思っても、本人が必要だと判断して自分で払うなら誰も止めません。

 

なぜ、障害のある人が自分のお金で選んだサービスに「必要ない」と言えるのでしょうか。

 

「自己決定・自己責任」を語りながら、自分のお金の使い道さえ否定する。

 

障害のある人は、自分のお金を何に使うかさえ、決める権利がないのでしょうか。

 

支援者にはそれぞれ大切にしている価値観があります。自立。覚悟。権利擁護。

 

どれも重要です。でも、その価値観が強くなりすぎると、本人が望むことよりも、支援者の考えが前に出てしまうことがあります。

 

支援職Aはご自身も障害のある方でした。おそらく長い時間をかけて自立を勝ち取ってきた経験が「自分はこれでできた」という確信になっていたのだと思います。

 

その経験は本物です。でも、障害の種類も困りごとの内容も異なる別の人の「正解」にはなりません。

 

「本人のため」を思えば思うほど、本人を置いていってしまうことがある。

 

本人はどうしたいのか。

 

その問いを、忘れたくないと思っています。

私の活動

 

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